梅浩先生のボローニャだより
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第5節 ボローニャ人口の構造的変容

〈これで冬も山場を超えたか?〉

聞くところによると、一時帰国していた頃ボローニャでも多くはないが、雪が積もったという。そういえば公園に行くと日陰になっているところでは、いまでも雪が残っている。

しかしここ数日、日中は随分暖かく、寒さも峠を超えた感じである。新聞には、2月6日、最低気温4度、最高気温11度と出ていた。

日本でも同じように経験したことではあるが、この頃になると、陽射しの明るさが違ってくる。どんよりと曇った空はない。ここ数日抜ける程の青さが戻ってきている。

冬至をすぎて1ヶ月以上もたっているのだから、当然かも知れないが春を呼び寄せる感じである。ヨーロッパの冬の厳しさを覚悟していただけに、やや拍子抜けの感じがしないわけでもない。

しかもボローニャでは日本のように、日本海を抜けて来る冷たい吹きさらしの風があるわけではない。その分過ごすのに、楽ではないかと思われる。三寒四温は有っても春が近いことを予感させる。

春が近いマルゲリータ公園
春が近いマルゲリータ公園

小さな花を咲かせた公園の風景
小さな花を咲かせた公園の風景

天気がよく公園にでた子どもたち
天気がよく公園にでた子どもたち

〈ボローニャ人口の構造的変容〉

すでにこれまでも、ボローニャの人口構造に異変があるのではないかと指摘してきた。

そこで今回はこれをもう少し発展させ、イタリア大都市の人口変化、ボローニャの年齢階級別・地区別変化、ないしはボローニャ在住外国人の推移などをみてみたい(注1)。

そのことでボローニャの立体的な姿にさらに迫ることができるのではないかと考える。

【イタリア大都市の人口変化】■ 90年代のイタリアは逆大都市化現象

表−1は全国の州都所在地18都市のなかで、人口の多い方から8大都市の人口変化を整理したものである。

その特徴は、@6000万人弱の人口規模のイタリアで、90年代前半に約40万人の減少、同後半に50万人の増加があり、90年代を通して10万人の増勢となっている。大局的には横ばいと見ることができる。

Aこの中で8大都市は90年代前半に5〜13%の大幅な減少、同後半には減少の幅は小さくなっているが下げは続いている。こうして90年代を通して5〜17%という都市人口の減少状態をみることができる。

B地域別にみても、首都ローマの減少が5%で一番小さいが、南部のナポリが17%の最大の減少である。南部ばかりでなく、北部のジェノバ、トリノ、ミラノも軒並み9%台の減少で、フィレンチェ、ボローニャも8%前後の減少である。

こう見てくると、この10年間大都市の人口減少・空洞化が続いてきた。イタリア全体での大幅な変動がないわけだから、中小都市への人口移動と吸引が起きていたといえる。

いま手元の資料の範囲では、どの地域に、どのような産業を抱える都市への移動かは不明である。しかし、逆大都市化現象という大きな流れのなかで、ボローニャの人口減少を見ることが必要であろうと思われる。

表−1 イタリア大都市の人口変化

【ボローニャの年齢階級別人口変化】■ 変化は内的・外的要因が相乗?

表−2はボローニャ市の10歳きざみの人口構成と、その変化である。

@まず目につくのは0〜10代人口の他世代に比較しての極端な少なさである。0〜9歳でやや回復が見られるとは言え、絶対人口は他世代の2分の1、ないしは2分の1以下である。

A次に10代が90年代前半に30%という大幅な減少を示し、その後は下げ止まりに近いとは言え、この減少状態が続いている。このことは20代も同じである。

Bそしてこうした傾向は、下げ幅が小さいとは言え、50代、60代も同様の状態を示している。

ここから私には、ボローニャの人口変化の特徴は2つの要素から来ているものと考える。

@結婚出生率の減少に伴う要因、A10〜20代と50〜60代は同一世帯も相当含まれていると見られる。かつ先に見たイタリア大都市の人口移動からするならば、他都市への一家転住の要因も相当あるのではなかろうかと考えられる。

つまり、イタリア家族の内的(結婚・子育て)、外的(雇用・就労)要因が相乗し、人口減少という大きな変化が起きているものと考えられる。

表−2 ボローニャの年齢階級別人口変化

【ボローニャの地区別人口変化】■ 歴史的市街地区の周縁で人口減少?

ボローニャの行政地域割りは9つの地区住民評議会(Quartiere)、及び18ゾーンによって区割りされている。同地区(Quartiere)がところによっては2つないしは3つのゾーンに分かれていることもあるからである。

一方で、歴史的市街地区(チェントロ)と周辺地区の分け方もできる。歴史的市街地区は4つに分けられ周辺地区と合体し地区(Quartiere)を構成している。つまり4つの地区は歴史的市街地地区を含み、他は周辺地区のみで構成されている(写真2参照)。

この9つの地区別人口変化を示したものが表−3である。@特徴的な数字は歴史的市街地区を含む地区が、過去10年間で7〜12%と比較的大きな減少を示し、これに接続している1つであるSabena地区も10%の減少となっている。A歴史的市街地区と周辺地区では、周辺地区がやや減少幅が大きい。

こうみてくると歴史的市街地区と周辺地区の接続部分で何らかの事情により大きな人口減少が起きているものとみることができよう。ここからは私の推測になる部分もあろうが、次のように考える。

すなわち、現在の私の下宿もそうであるが、居住条件では狭くて、暗い、かつ暖房等の条件が決して良いわけではない。しかし、歴史的市街地区の中であれば、何をするにしても便利である。

文化行事への参加により帰宅が遅くなったとしても、歩いて帰れる範囲である。ここに住むには多少の不便さはあっても、勝るのもがあると考えるのは自然であろう。

もしこの不便さを耐えることができなければ、むしろ近代的設備の整った周辺地区の住まいを確保しようとするのもこれまた当然の流れであろう。

ここから居住の不便さもあり、歴史の重みの恩恵にも浴しない地域からの脱出現象が起きてくる、と私は考えるのである。

おそらく住宅政策の貧困さの結果と諸矛盾はこの地域に集中しているであろうと推測するのである。

ボローニャの地区住民評議会の9地区(Quartiere)、中心部がチェントロ
ボローニャの地区住民評議会の9地区(Quartiere)、
中心部がチェントロ

表−3 ボローニャの地区別人口変化

【ボローニャ在住外国人の人口推移】■ 外国人増加はボローニャ社会を変貌させる?

次に、ボローニャ在住外国人の人口推移を表−4でみてみよう。

@人口約37万人のうち、17,670人、約5%が外国人である。1991年4,704人に対し、2001年には4倍近い人数となっている。

A構成比ではアジア37.6%、ヨーロッパ28.0%、アフリカ27.4%であり、国別にはモロッコ12.8%、フィリピン12.5%、EU9.8%、中国7.9%が多く、チュニジア、パキスタン、エチオピアがこれに続く。

B増加の割合では、パキスタン、モロッコ、フィリピン、チュニジア、EUを除くヨーロッパが高い。

こうしたことから、おそらく地中海周辺諸国や、東ヨーロッパ、アジア・アフリカなどからの雇用を求めた移民が多く、こうした人々が流入する状況になっているものと考えられる。このすう勢が今後数年続けば、ボローニャ社会はさらなる変貌を遂げざるを得ないであろう。

表−4 ボローニャ在住外国人の人口推移


(注1)表1〜表5の出典はすべてComune di Bologna "Annuario Statistico 2001"(2002)である。


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