梅浩先生のボローニャだより
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第3節 数日間の日本滞在、再びボローニャへ

〈数日間の日本滞在、体に生気が戻る〉

数日間の滞在時日は瞬く間に過ぎた。

メールでのやり取りがあるとは言え、久しぶりに家族と再会し、元気な姿をみて何よりも安心した。

一方で、長い間家事の働き手を一人欠いた故なのか、家の中の整頓は充分には行き届いているとは思えず、自分の不在が少なからず重荷になっていることも間違いなかろうと思われた。

そしてデジカメや写真映像を保存するパソコン関連の部品の調達と、ボローニャで間違いなく始動させる予行には思わぬ時間が取られた。これらは現地での記録や日本との連絡のため、必ず整備する必要があった。

国内で考える限り、「ボローニャでもできるでしょう」と考えがちで、「いやそうは言っても」と答えるしかなく、ことの重大性は充分に理解してもらえないのが実情であった。

また地元名古屋では何人かの人々と再会し語らいを持った。後半の滞在へ向けて貴重な内容をなすものとなった。

そして一晩は京都の<WEBマガジン・福祉広場>編集部を訪問、席を変えて編集長をはじめ何人かの方々と食事をともにしながら、ボローニャと日本のことを語らった。1年前ボローニャ旅行を同行した方々も来ていただき、より深い話し合いを持つことができた。

ボローニャの地域政策の動向にとって重要となる市長選挙は本年6月である。その直前の重要な時期となる5月には福祉広場の方々のボローニャ再訪が今後具体化するであろう、との話を聞く。

また「ボローニャだより」への幾つかの要望も聞く。

例えば、かつてボローニャの「人民の家(Casa del popolo)」が日本でも紹介されたことがあるがその後どうなったのか(注1)、外国人労働者の増大のなかで参政権はどうなっているのか、北部イタリア・ボローニャに対して南部イタリア、なかでもシチリアの現況はどうかなど、自分にとっても大変興味ある事柄の「ボローニャだより」への掲載注文である。

可能かどうかは不明であるが、貴重な意見を聞くことができた。

こうした一見慌ただしい数日を過ごすうちにも、体の芯に残っていた疲れがウソのように無くなっていくことに気づいた。

つまり半年余りの長期滞在で、生活には慣れてきたとはいえ、依然として何処かで緊張しストレスが溜まっていたように思われた。これが氷解していくのがわかった。

加えて日本の水や米など、日本の食生活に戻す中で、体の生気も戻っていった。つまりイタリアでのカルシウム分を多く含んだ硬水は日本米をもってしても、日本でのようにふっくらとしたご飯は決して炊けないのである。

福祉広場編集室にて、井上編集長
福祉広場編集室にて、井上編集長

駿河湾上空から見る富士山
駿河湾上空から見る富士山

冬のポデスタ王宮殿
冬のポデスタ王宮殿

〈ボローニャに戻る、後半の滞在へ、〉

再び日本を後に、ボローニャでの滞在の途についた。この時、名古屋=成田間の飛行機で見る駿河湾上空の空は晴れ、雪をいただいた富士山は素晴らしい景観であった。

しばらく日本を後にするまたとない見送りの場面とすることができた。そして、滞在後半の取り組み目標は定まったのかを自問した。

半年余のボローニャ滞在で問題の所在はかなり明らかになってきた。従って、焦点を定めた取り組みが可能であろうし、そうしていきたい。

5月には上に述べた福祉広場の方々の再訪もあろう。これらを大きな山場として位置づけ、その中で自身の研究も結実させていきたいと思う。必要な補充のインタビュウも行わなければならない。まずは収集した資料の翻訳等に急いで取り掛かろうと決意していた。

フライトの都合とはいえ、成田で4時間、フランクフルトで5時間の時間待ちを入れて、ほぼ24時間かけてボローニャ空港に着いた。そして、空港バスで下宿近くのインディペンデンス通りに降り立った。すでに深夜に近く、街は森閑としていた。

ボローニャの生活は、コンピュータのウイルス駆除から再開した。

つまり数日間の一時帰国はメール受信を休ませ、同時にウイルスバスターの自動更新をも中断させていたのである。そうしたことを忘れて一気に受信操作をすれば、ウイルスメールも入ってくる。

しかし開封することなく無事駆除することができた。こうした思わぬ恐ろしい事態をどう切り抜けていくか、これも厄介な一つではある。

休み明けの月曜日からは、慌ただしく動き始めた。

大晦日の年越し行事に参加した際に盗難にあっていたカード類が出てきたとの通知がきていた。このため保管されている事務所への出頭である。自転車を借りて片道20〜30分はかかろうかというところまで出かけた。

大部分は再発行してもらった図書カードやキャッシュカード、名刺の類であった。直ちに手を打ったため用を果たさなかったものか、ないしは金目でないものばかりである。

その事務所がけっこう中心地から離れたところにあり、道すがら景観を楽しんだ。確かに歴史的市街地チェントロとはやや趣きは異なる。

つまり高層建築物が建っていたり、戦後に郊外地域で急成長したために道路区画も整然とはしていないところも見られる。人口37万人のボローニャという場合、当たり前ではあるが決してチェントロだけではなく、こうした全体を見る必要があることを痛感した。

その後食料品の買出し、銀行からのお金の引出し、日本から預かってきた娘へのブーツなどの郵送を慌ただしく片づけていった。いつものボローニャ生活が再開した。

サン・ペテロ二オ聖堂
サン・ペテロ二オ聖堂

ネッツ−ン像、奥は市役所
ネッツ−ン像、奥は市役所

歴史的市街地の外側の景観、高層建築も見られる
歴史的市街地の外側の景観、高層建築も見られる


(注1)「ボローニア『人民の家』からの報告」(1983)松田博、合同出版等。


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