梅浩先生のボローニャだより
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第1節 トリエステの旅

〈旅への思い〉

すでにイタリア滞在が5ヶ月目も半ばとなった。これまでのイタリア旅行で多くの都市を訪ねていることは確かである。しかし今回は、研究滞在という自らに課した制約から、ほとんど旅をすることがなかった。

それでもやや資料収集も進んできたこともあり、またせっかくイタリアにいるのだからと、機会を見つけては新しい見聞を広めることにした。ここボローニャからであればある程度の範囲は行けるだろう。

私は、生れは大阪であるが、すぐに戦争疎開により両親の故郷である高知に育った。高知市の西に位置する田舎の町であり、物心つく10数年の期間である。

当時、四国山脈の厚い壁は、気持ちの上でも日本の他の地域との隔絶感は格別であった。電化以前の国鉄土讃線は、その山なみに100を超えるトンネルを穿ち、流れてくる煤煙に涙した。

関西経済圏の中枢・大阪まで国鉄で8時間、当時で言えばどこに行くにも陸の孤島・辺境の地そのものであった。高知・桂浜に立つ坂本竜馬の銅像ではないが「海の向こうが近い」、そんな感じをもって育った。

竜馬や中岡慎太郎がその昔、新しい人生を切り開いていったことに、知らずしらず自分の人生をも重ねていたかも知れない。

ここボローニャにきて、さらにもう一回り外側に、多様な文明が入り交じって今日を作りあげているであろう地域を見てみたい思いがしてきた。

日本にいて「極東」という言葉には、西洋人の側から見たものとしていつも嫌悪を感じていた。しかし誰が名づけたかを別にすれば、ユーラシア大陸を俯瞰すると日本は紛れもなく大陸の東の果てにあることは間違いない。

大陸や朝鮮半島から、やがては列島の四周から文明・文物が入り、人々の営為により今日を築き上げてきた日本である。大陸から切り離された隔絶感とそれを乗り越える交流の歴史があったはずである。

ここ数日のイタリアのメディアを見れば、11月12日イラン・ナシリアでおきたイタリア憲兵隊司令部のテロ攻撃に対する追悼や葬送のセレモニーが相次いでいる。日本の多くの人からみれば、あるいは中東は隔絶された地であるかも知れない。

しかし、イタリアからみれば、中東は近隣・周辺諸国そのものである。地中海と湾岸諸国の動きは、イタリアの動向と表裏一体の地域として扱われている。洋の東西を違えば、事情は少しずつ異なってくる。

滞在中、文明の隔絶と交流を念頭に、日本からはあまり触れることのできない旅をする機会を持つことができないかと思っている。

〈外国治世下が長いトリエステ〉

秋も深まる日、1泊2日の短い旅行に出かけた。今回は準備もできないままであったが、気分転換を兼ねた旅であるとして自分を納得させた。

行き先は、1382年から第1次大戦後の1919年に至るまでオーストリア領とされ、世界史では「未回復のイタリア」と呼ばれてきたイタリア東北部の地域である。もともとはイタリアの領土でありながら長い間外国の治世下におかれてきた。その一つにスロベニア(旧・ユーゴの一部)と国境を接する町、トリエステがある(注1)

ボローニャ駅を朝7時50分発ヴェネチア行き列車に乗り込んだ。

昨日まで続いた雨は止み、久しぶりの青い空が見える。イタリア随一のポー川流域の大きな三角州を横切る形で列車は走る。フェラーラ、パドバを通り、ヴェネチア・メストレ駅に止まる。いわゆるヴェネチアに入る手前の駅であり、イタリア最東北の町トリエステに向けての乗換えとなる。

しばらく前からは見慣れたボローニャ近郊の田園風景とは異なり、ところどころ原生林のおおい茂る景観が続く。エミリア・ロマーニャ州の州都ボローニャから、ヴェネチアのあるヴェネト州を横切り、フリウリ=ヴェネチア・ジュ−リア州の州都トリエステへ12時05分に到着する。待ち時間を含めて4時間を少し超える。

ボローニャからヴェネチアを経てトリエステ(左下から右上へ)
ボローニャからヴェネチアを経て
トリエステ(左下から右上へ)

駅舎は、最東北の玄関口に相応しくボローニャとは比べものにならない程の立派さである。予約したホテルに荷物を置き、街が見渡せるサン・ジュストの丘に向かう。「ボローニャより北に位置する」、「西ヨーロッパを範囲とする大きな風の流れがトリエステを通る」、と寒さや風を心配していたが、この日はそれ程ではなかった。

丘の上のサン・ジュスト教会
丘の上のサン・ジュスト教会

ボローニャやヴェネチアで見慣れたあの赤レンガで統一された色調はない。赤レンガ色以外もあるし、近代建築もある。サン・ジュストの丘から一望する港町トリエステはこの地域にとって重要港湾には違いなかった。

港には大運河が構築され、周辺部は倉庫の一群があったことが想像される。大運河の最後の地点に、セルビア正教会の聖堂がある。ローマカトリックとは明らかに異質な紫で装飾されている。

イタリア最東北部の港町トリエステを一望
イタリア最東北部の港町トリエステを一望

流通拠点の大運河
流通拠点の大運河

イタリア統一広場からの景観は荘厳とでもいえる様相である。20世紀はじめには、トリエステの人口は25万人に達し、オーストリア=ハンガリー帝国の中ではウィーン、ブダペスト、プラハに次ぐ大都会になっていたとのことである(注2)

イタリア統一広場から市庁舎を臨む
イタリア統一広場から市庁舎を臨む

〈スロベニア(旧・ユーゴ)への領土分割〉

このトリエステにきて、妙なことに気がついた。

トリエステの街が海岸部だけであることである。何故海岸部だけなのか?もともと海岸部だけの街なのか、それとも海岸部だけを残して他に割譲を余儀なくされたのか、である。

インフォメーションで貰った地図には、トリエステを取巻くスロベニア側の地名がスロベニア語・イタリア語の二重併記になっていた。

海岸部だけ残ったトリエステ、黒はスロベニア
海岸部だけ残ったトリエステ、
黒はスロベニア

ともあれ現国境の一つを見ようと、トリエステのさらに先端のムッジャの街に翌日出かけた。半島の丘の上にはムッジャ・ヴェッキアのロマネスク様式の聖堂があった。

この日は小雨降るなかを、日曜日のミサを兼ねた特別の行事が行われていた。午前11時過ぎ、聖堂から三々五々、出てくる人たちにはお年寄りや中には若者もいた。

遠い昔から続いてきた催しが今日も滞りなく終わった、そんな感じが伝わってきた。徒歩や自家用車や時間を合わせたかのような市バスに乗って帰っていった。

取り残された私たちは、すぐ先にあるという国境線まで行ってみることにした。間違いなく程なくして、検問所があった。一人の兵士がいた。ここでも検問所は軍事機密であろう。

写真は少し離れたところから撮った。近くには鉄塔に張り付いた無数のパラボラアンテナが見えた。おそらくスロベニア方面に向けた国際放送ではないかと推測した。

この他に別の検問所がもう1ヶ所あるという。一端丘をおり海岸沿いに迂回して行った、その先端にあることがわかった。

バスに乗りやがて着いたのが、一見すると高速道路のような感じの検問所であった。係員も数人いて、先ほどよりはやや本格的である。

ムッジャ・スロベニア国境
ムッジャ・スロベニア国境

少し様子をみていると、後からきたイタリア人老夫婦が国境線の向こうにあるレストランに昼食をとりに行くという。海産物が美味しく、とても廉いといって、歩いて渡っていった。お腹が空いてきたので、それではと我々も国境線を超えてみることにした。

パスポートを見せ、向こうのレストランで食事をするだけだと説明すると、「ボゥナ・ペチート(良い食事を)」と言って送ってくれた。EU域外なのに、出国の検印も押さない。

「スロベニアに入った」、その感慨で四囲を見る。小雨の降る景色はトリエステよりも、ムッジャよりもさらに自然が残っていた。自然海岸、自然沼沢が残され、鳥が飛来してきていた。赤く染まる紅葉には、久しぶりの日本の秋を感じさせた。近くには人家は見えなかった。

スロベニアの開発の遅れは自然を多く残す
スロベニアの開発の遅れは
自然を多く残す

レストランにはたくさんの客がいた。着いた時は席も無かった。帰りのバスが気になって仕方がなかった。トリエステまで1時間、さらにボローニャまで4時間以上はかかる。明日の月曜日はヒヤリングの予定も入っている。そのうちイタリア側国境まではタクシーが来ることを確認し、バスの時間のことは諦めた。

さすがフルコースの食事までは時間がなく、とれなかった。エビとイカなどの海産物は新鮮であった。スロベニア産の大ジョッキーのビールも格別であった。廉いと思い込んでいたことに比べれば、値段はいま一つだった。国境越えの客相手だと止むを得ないことと思った。

国境を再び越えて戻る時に、ひと悶着があった。パスポートには数次旅券と一次旅券がある。私は何度でも行き来ができる数次旅券である。同行者は、一次旅券なので再入国が出来ないという。

「出国のときは何も指摘はなかった」と押し問答しながら、時間が経過し、ようやくパスポートを取り戻して再入国した。国境を越えることのやや緊張した一瞬ではあった。

その後ボローニャに帰って手に入れたのが、領土の変遷の地図である。説明文には次のように書かれていた(注3)

領土の変遷
領土の変遷

  • 赤斜線:1919年から1941年のヴェネチア・ジューリア州
  • 黄斜線:イタリアによるスロベニア南部併合のあと、1941年新ルュビアナ県設立
  • 緑部分:第二次大戦後、ロンドン合意覚書(1954)までのフリウリ=ヴェネチア・ジューリア州
  • 緑赤斜線:合意覚書(1954)に基づきイタリアに返還されたトリエステ地域
つまり、第一次大戦後、「未回収のイタリア」が回収された版図が赤斜線までであり、第二次大戦中のムッソリーニによるスロベニア南部の併合が黄斜線である。その後チトーを指導者とするユーゴスラビアのパルチザンが、連合国に先んじてトリエステを軍事占領した。

このため、ロンドン合意覚書までは緑部分のみがイタリアの領土である。合意覚書により緑赤斜線は返還されたが、赤斜線はユーゴスラビアに割譲されることになった。

日本では戦後処理の問題として、北方領土が解決課題となっている。実は極めて類似したことがここイタリアに起きていることに気がついた。

日露戦争後の日本によるロシアからの南樺太の割譲、第二次世界大戦中のソ連(現ロシア)による千島列島への軍事占領、1951年のサンフランシスコ条約による日本政府のウルップ島以北の領土権放棄、併せて北方4島のソ連支配の継続である。

旧ユーゴスラビアといい、旧ソ連といい共に「社会主義」を名乗ってきた国々である。この地にも領土問題がいまなお残されているのではないのか、という思いを強くした。

ほんの短い旅である。断面の一つを垣間見たに過ぎない。しかし、そこに身をおき、少しは見えてきた部分もある感じがする。そんなトリエステの旅であった。


(注1)1870年のイタリア統一後、イタリア人居住地域で国土未回復の地域。トリエステ、イストリア、南チロルなどを指す。1919年、オーストリアとの講和条約、サン=ジュルマン条約によりイタリアに返還。トリエステはオーストリア領となる以前にも、4世紀末のビサンツ帝国成立以来数多くの諸国の支配を受けてきた。「世界史B用語集」(2000)全国歴史教育研究協議会編p.189、253。「ヴェネチア・北東イタリア」(2002)田辺雅文・武田和秀p.292〜297参照。

(注2)前掲書「ヴェネチア・北東イタリア」p.297。

(注3)「GUIDA D'ITALIA FRIULI VENEZIA GIULIA」(1999)Touring Club Italiano、地図p.9。なお、赤斜線は原本では1918年からとなっているが、注1のように1919年サン=ジュルマン条約によりイタリアに返還されたのであるから、1919年と記した。


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