梅浩先生のボローニャだより
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第1節 炎暑のボローニャ、体の変調

〈炎暑の続くボローニャ〉

風はない。皮膚から体の水分が蒸発していく。チェントロ(歴史的市街地区)を歩く私は、やや疲れもたまり、ふーと時にはめまいがしそうになる。少し外周部に住む知人は、ここよりは少しは温度が低い感じですね、という。石畳と石の壁に囲まれた街中はヒートアイランド現象そのものである。

街頭で無料配布される小さな新聞「City Bologna」は、今日の気温を予想している。7月16日、早朝25度、午後34度、夕方27度。しかし、この数字だけではボローニャの夏を伝えたことにはならない。

日本よりやや乾燥しているとはいえ、建物・自動車のほとんどにクーラーは付いてはいない。1.5リットル入りの水を持ち歩き、街頭だけでなく、教室でも飲む様に、躾けが悪いとはとても言えない。飲んだ水の何分の一かが、小水として出るだけである。

これが8月も続くのかと思うと空恐ろしくなる。下宿の大家さんは、「8月は雨が多くなる、問題ない」とのことである。確かに当地は雨が降ると、想像以上に気温は低くなる。果たしてそうなのか、その言葉を信じて待つことにしたい。


ボローニャの風物詩、
ポルティコの下を行き交う観光客


〈古代に栄えた町、マルツァボット訪問〉

 ボローニャ到着以来、通い始めた語学学校主催の見学会に参加する。ボローニャ中央駅から30分程にあるアペニン山脈のふもとのマルツァボットである。紀元前7〜5世紀頃に、この町をはじめエトルリア人の幾つかの都市国家がトスカーナを中心に栄え、一時はローマも支配した。やがて程なく滅ぼされた。3月まで在職し使用した高等学校世界史Bの教科書でも、都市国家ローマは次の記述から始まる。「インド=ヨーロッパ語族のイタリア人がイタリア半島を南下し、その一派であるラテン人は、エトルリア人の影響下で前7世紀までに都市国家を形成した。その都市国家の一つであるローマは、前6世紀にエトルリア人の王を追放し、貴族を中心に共和制をしいた」(注1)
 つまり古代ローマの形成にとって重要な契機の一つに、ここマルツァボット等のエトルリア人の影響を考えることができるのである。駅を降り遺跡に入る。当日も少数だが遺跡整備に携わる職員の姿があった。ローマ支配下の時代に火山灰により埋没したポンペイと比較すると、規模は小さい。しかし、中央を交錯するメイン道路の幅員はポンペイのそれと比較しても決して見劣りはしない。町に縦横に引いた水道のあとがある。このエトルリア人の影響下にローマの都市国家が建設されたであろうこと、同時にここイタリア中北部がいち早く栄えた地理的重要性に思いをはせる。
 実はこの町は重要なもう一つの顔がある。語学学校のパンフレットにも次の記載がある。「ここは最近の50年でようやく再建されてきた町である。第二次世界大戦においては悲劇の町として有名になった。ナチスはパルチザン部隊への報復として、この町で1800人を殺戮したのである」(注2)。つまり大戦末期のドイツ軍が、パルチザンとそれをささえる住民への無差別の殺戮行為を行った悲劇の町である。1年の滞在ならば場合によっては参考になるかも知れないと思って持ってきていた「イタリア・パルチザン(早乙女勝元編)」にその記載があるとはうかつであった(注3)。小さな役場であるがその敷地内には記念のモニュメントがあり、近くには記念館があった。役場に入っていくと、秘書室勤務と思われる女性が出てきた。手にしたその本に掲載されている、役場の建物とモニュメントの写真を見て驚いていた。「町長はいま時間がない。しかしこの町のことを書いているそこをコピーさせてくれ」といって、数ページをコピーした。どこにでもありそうな小さなこの町が、一度は歴史の中に抹殺されようとした町であり、その悲劇を風化させまいとする営みがそこにあった。 強い日差しの昼下がりこの町をあとにした。

マルツァボッタの役場
マルツァボッタの役場、
左にモニュメント一部が見える


モニュメント、うずくまる子どもたち
モニュメント、うずくまる子どもたち


〈体の変調、始めての病院〉

日本出発以来の緊張感、加えて日差しと乾燥した空気は、わずかに体に変調をもたらしたかにみえた。幼い頃の中耳炎による後遺症か、フライトによる気圧変動にはいつも注意を要する。

今回も日本で1ヶ月前から、耳のマッサージ治療を行ってきたところである。入国直後には無事フライト終了と安心していた。しかし2週間近くたったころから右耳にツーンとした、やや気になる感じが大きくなってくるばかりである。

こうした中でのあせりは大変なものである。日本では行きつけの耳鼻科へ行って見てもらい、何がしかの治療を行ってもらう。スムースそのものである。

しかし、イタリアの保険に入っていないがよいのかどうか?病院はどこか?症状をどう訴えるか?精神状況は全くよくない。結局、日本出発前に入っていた長期海外滞在者用保険証書を読み返す。イタリアをカバーし日本語を話す事務所はパリセンターであることを確認し、記載されているフリーダイヤルに連絡をとることにする。大家さんにはフリーダイヤルであり、電話代は向こうもちであることをしつこく確認し、電話した。

応対した所員に必要事項を伝えると、診ていただけるボローニャの病院を探し、事務手続きとあわせてFAXでもって送ってくるとのことであった。1時間近く後に送付されたFAXで病院の住所を確認すると、歩いて行けないところではない。しかしそれは2日後の15時となっていた。仕方あるまい。症状をどう訴えるかイタリア語のメモをつくり始める。

そうこうしている内に、最初に相談をもちかけた在住の日本人から電話がかかってきた。当初、「海外滞在者用の保険の使い方もわからないので、夜にイタリア人の夫が帰ってきて聞いてみる」と言っていたのである。

それが「現金で払って保険会社あてに請求すればよい。病院は個人病院であるが△△病院を明日16時30分に予約した、どうします」とのことである。1日でも早い方が良いし、付き添っていただけるとのことで、上記パリセンターに病院の変更の了承をとりつける。

病院は下宿のすぐ近くにあった。ボローニャのメイン大通りには違いない。日本では国公立病院だけでなく、個人病院でも一見して病院とわかる構えがある。しかしイタリアの、それも個人病院は違うのである。表札も個人の住宅と大して変わりない。それ程大きくない金属板に、他の人と並んで、博士 カルロ チャンプリー二、外科医師(耳鼻咽喉科専門医)と記されているのみである。

上がって行くと受付に年配の方が居た。予約を取り付けていたのですぐに診察室に入った。同行の在住女性がすべてを通訳してくれた。ありがたい。聴力検査と鼓膜の弾力性の検査があった。右耳、高音部聴力がやや落ちている。鼓膜の弾力性は問題なし。疲れなどによる血液循環が悪くなるとこのようになる。食後3回×15日分の薬をもらうことになる。その診断に間違いないと思った。神経を使い、疲れたのが主な要因であろう。

診察室には看護婦はいない。医師は検査をすべて一人でやった。診療費も70ユーロ(出国時レート140円で約9,800円)であると端数のない数字を言って、お金を受け取った。領収書も自ら書いた。受付嬢は待合室の患者と談笑していた。薬局では薬10ユーロ(約1,400円)を払った。計80ユーロ(約11,200円)である。

イタリアの医療事情の全貌はわからない。ともあれ事情が分かり気持ちよく助けてくれる人がいて、ありがたさが本当に身にしみた。9月からを本番と考え、最初からスピードをあげないで、健康に留意することを肝に銘じたできごとである。

これが個人病院への入口?
これが個人病院への入口?
正面左上の表札の一つが耳鼻科を示す


(注1)「高校世界史B新訂版」2002年、鶴見尚弘・遅塚忠躬著、実教出版p.22。「改定新 版世界史B用語集」2000年、全国歴史教育研究協議会編、山川出版社参照。

(注2)「Quaderno delle Attivita」2003年、Cultura Italiana Bologna。

(注3)「イタリア・パルチザン」1999年、早乙女勝元編、草の根出版会、P.40〜46参照。

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