梅浩先生のボローニャだより
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第3節 太陽の国、イタリアへの入国

〈イタリア入国〉

デュッセルドルフからボローニャへは、スイス航空機によりチューリッヒ経由で入った。

気温は低く、昨日からの小雨のぱらつきは続く。先行する離着陸機はすさまじく水煙をあげる。雨雲は空を覆っていた。小型だが堅牢な飛行機は、右に左に雲を避けるように進む。山岳国スイスの機長ならではの操縦なのか、飛行は極めて安定していた。

チューリッヒで乗り継ぎをし、いよいよボローニャに向かった。スイス国境を超え、イタリア・湖水地方と思しき空域に入り景色は一変した。抜ける空、さんさんと輝く太陽、夏のイタリアである。南北軸同一のドイツ・イタリア、何故こうも違うのか?アルプスを超え、かくも異なる気候。

感慨に浸っている間に飛行機はボローニャ上空を超え迂回して、空港にすべるように着陸。スーツケースを受け取り、ゲートをくぐる。手を振りながら旧知のルーチョ・サルチーニ氏が出迎えてくれていた。

彼はイタリア労働組合CGELの年金者組合エミリア・ロマニャ州書記長の職にあり、近郊都市カルピからここボローニャに通勤している。昨年9月以来の再会である。「来週末には仲間たちで歓迎会をやるから」と再会を約し、タクシー乗り場で別れた(注1)

宿舎に到着後の丸1日は慌ただしく過ぎた。宿舎は滞在当初通うことにしていた語学学校の紹介によるものであり、1ヵ月後には別の宿舎を探さなければならないことが判明した。

予測できなかったわけではないが、語学コース終了後の継続使用の安易な期待が簡単に打ち砕かれた。滞在許可証を取るための警察への出頭も大変なことを予感させた。それと思われる窓口で番号札をとり待機の後、あなたの場合向こうの建物へ行けとのこと。そちらへ行けば、電話予約を入れてから来るようにとのことである。漸く来週7月8日(火)12:30の予約ができた。

長期滞在のための必須要件として、安定した宿舎の確保、滞在許可証の取得、郵便局あるいは銀行口座開設など覚悟を決めて迅速に行う必要がある。そのためにはさらに、イタリア強制保険INAへの加入手続き、税務コードの登録などが必要である。

長期滞在の誰もがやってきたこととは言え、どこでどうやればよいのかややパニックになりそうである。 7月5日(土)、6日(日)の手続きはもちろんすべて休みである。ボローニャの歴史的市街地区チェントロの探索を試みる他ない。

〈ボローニャの夏〉

中心部マッジョーレ広場には「文化都市の夏・ボローニャ万歳」とかかれた大きな垂れ幕が目に入る。手に取るパンフレットには、市主催による6月14日から9月14日に及ぶ文化的催しのプログラムが掲載されている。会場別に、マッジョーレ広場、ザンボー二芸術通りなど計11ヶ所である。

例えばメイン会場ともいえるマッジョーレ広場における一部をあげてみよう。

○音楽=アントニアノ少年少女合唱団の40年祭(6/14)、想像からの音楽(6/30,31)、8月2日のコンサート、聖母被昇天の祝日大コンサート(8/14)、 ○映画=ボローニャが安らぎを持つ時(6/27)、名作映画再上映(6/28〜7/5)等々。さらに、○演劇、○子ども向け、○出会い=幼い子のためのメディヤによる地中海、がある。

この他10ヶ所の別会場でも企画が予定されている。

名作映画再上映は、青空のもとでのマッジョーレ広場と屋内の会場が用意されている。上映本数はといえば、6/27=1、28=3、29=20、30=19、7/1=19、2=23、3=19、4=19、5=19であり、9日間で142本である。すごいという他ない。おそらくその道に詳しい方が見れば涙も出ようものである。

マッジョーレ広場の臨時映画会場
マッジョーレ広場の臨時映画会場

マッジョーレ広場では、臨時にしつらえた椅子席で午後10時からの開始である。昼間歩き回り、疲れてしまった私などは「まさかそんな時間に」と思えるほどである。それがイタリアである。

きょう7月6日の日曜日はさすが幾つかの商店もしまり、町は比較的静かである。昨日の土曜日は、町並みに人は溢れるばかりであった。ボローニャの市民にとっての文化の享受は当然として、この取組みは同時に各国からやってくる「真のイタリアを知りたいと望む、えりすぐりの観光客」(注2)の受け入れとなり、ボローニャ経済をささえているものと実感できた。

もう一つボローニャに入る早々目にしたことに平和への行動がある。7月4日午後8時、200人ばかりの若者が、広場に集まり集会を持った。後半からは全員がダイインをする。その中を黒装束で、足は竹馬を括りつけた5〜6名の者がパフォーマンスの歩き回りを行う。

手にしたチラシには、「イタリア政府の高尚な認可決定は、サルデーニャを放射性廃棄物の海にする」「サルデーニャにおけるNATO軍によるヌラギの島への廃棄物持込反対」と書かれていた(注3)。広場だけでなく周辺を歩くと、家の窓にはPACE(平和)と書かれた旗がかかっているのがみえた。平和の取組みの広がりをみた思いがした。

ボローニャの斜塔を臨む
 ボローニャの斜塔を臨む

斜塔からマッジョーレ広場を臨む
斜塔からマッジョーレ広場を臨む 

(注1)日本の年金者組合創設にあたり、イタリアが大いに参考となったと聞いている。しかしイタリアの労働組合は現役労働者だけでなく、年金者や未組織までふくめた組織である。日本の場合、労働組合の構成員とはみなされずこの点で大きな相違がある。従って年金者組合州書記長である彼も50代半ばの働き盛りの幹部である。「仲間たち」については後に記すことになろう。

(注2)「cultura italiana」2003年7月、資料p.2。

(注3)ヌラギとは、サルデーニャ島にある先史時代の石造建築物。

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