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『無痛文明論』

森岡正博 著

これまで、科学技術の進歩のもたらす環境破壊とか、遺伝子操作が神の領域までを侵食してきたとかいうことは言われてきた。そして、今のところ、科学技術の暴走を許さず国民的合意や法整備、倫理とのバランスが大事とかいうあたりさわりのない結論にとどまっているように見える。

生命倫理学者である著者は、そんなおざなりの視角からではなく、独自の新鮮な切り口から現代文明にメスを入れた。しかし、それは実に難解で異様な、息苦しい論理の世界に迷い込むことになった。

これまで文明の進歩といわれたものは、身体的痛みや苦しみを避けることであったが、そこに生じたのは人間の家畜化で、しかもそれは自分で自分を家畜化する「自己家畜化」であった。

すなわち、自然の脅威を避けて暮らしやすい人工環境に変え、食料はたいした苦労もなく自動供給されるようになり、さらには「優生学」もあらわれて気に入った子供が得られるようになり、死のコントロールさえもできるようになった。

しかし、その結果、生命の輝きを失ってしまうことにならなかったか。著者は、これを「無痛文明」と呼び、われわれの環境も思考もその「無痛文明」に骨の髄まで毒されているとした。

一見冒険のように見えるものも、多くの安全弁に守られた「無痛文明」社会の中で仕組まれたものだと例をあげて解説してくれる。「安楽死」を求める風潮も「無痛文明」のあらわれだ。また「優生思想」は、中絶が精神的に苦痛であるからと、体外受精という「予防的無痛化」で乗り切ることを思いついた。

著者は、「『無痛文明』とは『身体の欲望』が『生命のよろこび』を奪い取っていくという仕組みが、社会システムのなかに整然と組み込まれ、社会の隅々にまで張りめぐらされた文明である」とし、「『無痛文明』は、われわれの将来に待ちかまえている甘い罠である」と記した。

こうして「身体の欲望」と「生命の力」を対立させる二元論に単純化して「無痛文明」を読み解こうとした。

充実した「生」を生きようとするわれわれは、この「無痛文明」から果敢に抜け出る努力をしなければいけない。では、どうすれば抜け出ることができるのか。そのことにも著者は真剣に筆を進めた。

「無痛文明における戦いは、『生命の力』を眠らせマヒさせようと様々な罠を仕掛けてくる『身体の欲望』の攻撃と、それを全力でかわしながら、悔いのない人生を、模索しようとする『生命の力』の反撃、という形をとることになる。」

そして、「自縄自縛」を「自己解体」すべきであるというのだが、丁寧に指南してくれるひとつひとつがどれも生易しいものではない。戦っているつもりが、それも「無痛文明」の術中に嵌(は)まっていると指摘され、われわれは、足の置き所に困ってしまう。

人に先んじて異臭を感じ取る感覚の鋭い人とは著者のような人なのだろう。有毒ガスの存在を人より早く嗅ぎ付けるカナリヤのように、注意を喚起してくれるありがたい存在である代わりに、当人は実に生き難くしんどい人生を余儀なくされているのだろうと思う。

国家に必要とされないだけでなく、その理論の高尚さゆえに多くの人達からも無視されざるをえなくマイノリティーから脱せられない。私はその苦しみにも思いを馳せる。

本書のとぐろを巻くような議論についていくのは骨が折れるし、内容をすべて理解するというわけにはいかない。このままではとり返しのつかない重大事態に陥ってしまうというのは著者の杞憂ではないかという気もする。「無痛文明」という風車に向かって戦っているドンキホーテのように見えなくもない。

しかし、著者は真剣すぎるほど真剣である。「私はこの本を書くために生まれてきた」という「あとがき」の告白には、著者の覚悟のほどを感じて背筋を引き伸ばされる思いがする。

私たちは、せめて著者の語る十分の一の内容でも理解して、この重大な指摘を無にしないような点検を始めることが求められているように思う。

『無痛文明論』
『無痛文明論』
森岡正博 著
トランスビュー
発行 2003年10月
本体価格 3800円



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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